人物像
坂本 龍馬(さかもと りょうま)
天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日没(1867年12月10日)
江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔 (なおなり)。龍馬は通称。
他に才谷 梅太郎(さいだに うめたろう)などの変名がある。
土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力 するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。
1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。
司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公として描かれて以降、知名度を飛躍的に上げ、
幕末の風雲児として国民的人気を得る。
引用元:wikipedia 「坂本龍馬」の項
ウィキペディアの執筆者,2012,「坂本龍馬」『ウィキペディア日本語版』,(2012年8月7日取得,http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC&oldid=43308675).
生涯
幼少期
龍馬は天保6年(1835年)11月15日、現在の高知県高知市上町一丁目の土佐藩郷士、坂本家に父・八平、母・幸の間の次男として生まれた。 他に兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益の時に長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した。 土佐藩の武士階級には上士と下士があり、両者の間には様々な待遇差別が存在し、下士は長い間様々な場面で抑圧されてきた。商家出身の 坂本家は下士(郷士)だったが、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった。
龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶという縁起の良い夢を見て、それに因んで龍馬と名づけられた。 また、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があったという伝説がある。
弘化3年(1846年)、12歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊与に養育された。 幼年の龍馬は寝小便癖があったと言われることがあるが、そのような記録はない。気弱な少年であり、漢学の楠山塾に入学したものの、 いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまい、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという。
龍馬の人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻・伊与の前夫の実家である下田屋(川島家)といわれている。 龍馬は姉・乙女とともに浦戸湾を船で渡り、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい 土産話などを聞かされて育った。また、世界地図や数々の輸入品を見て、外の世界への憧れを高めたともいわれている。
嘉永元年(1848年)に日根野弁治の道場に入門して小栗流を学び、非常に熱心に稽古し、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に 「小栗流和兵法事目録」を得た。
引用元:wikipedia 「坂本龍馬」の項
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江戸遊学
小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のために、1年間の江戸自費遊学を藩に願い出た。 出立に際して龍馬は、父・八平から「修業中心得大意」を授けられ、溝渕広之丞(みぞぶち ひろのじょう)とともに土佐を出立した。 4月頃に江戸に到着、築地の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現:東京都中央区)の門人となる。 道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小千葉」または「桶町千葉」として知られ、周作の 「玄武館」(大千葉)とは別である。道場には定吉の他に長男・重太郎と三人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われるさな)がいた。 ただし、汗血千里駒では坂本龍馬は千葉周作の門人としており、千葉定吉の道場が嘉永6年の時点には桶町に道場がなかったことから2度目の 遊学時に千葉定吉道場の門下になったのではと疑問視されている。龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も 臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では 「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている 。
同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山(さくま しょうざん)の私塾に入学した。 そこでは砲術、漢学、蘭学などの学問が教授されていた。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されて しまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。
安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。在郷中に、龍馬は中伝目録に当たる 「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」を取得し、日根野道場の師範代を務めた。 また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽記略』(ひょうそんきりゃく)を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、 河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されている。 また、この時期に徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる。
安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した。 同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して、8月に藩から1年間の修業が許された。9月には江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で 土佐勤王党を結成した武市半平太(たけち ずいざん)らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。 二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行している。
安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった山本琢磨を逃がす。 安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。 北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、発見、現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法・目録」を与えられた物であり、 一般にいう剣術では無く薙刀術であり、北辰一刀流「初目録」である。ただ千葉道場で塾頭を務めたことや、「免許皆伝を伝授された」など 様々な同時代の人物の証言もあるなど、優れた剣術家であった証拠も残っている。同年9月に土佐へ帰国した。
引用元:wikipedia 「坂本龍馬」の項
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土佐勤王党
土佐藩では幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主・山内豊信 (やまうちようどう) が吉田東洋を参政に起用して、意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣に一橋慶喜を推戴して 幕政改革をも企図していた。 だが、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、 開国を強行し反対派の弾圧に乗り出した (安政の大獄)。 一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を養子・山内豊範に譲り隠居を余儀なくされた。 隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。
安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。 事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり、尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった。
同年7月、龍馬の朋友であり親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵・久松喜代馬・島村外内らとともに土佐を出立した。
龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑ったが、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。
一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前・美作・備中・備後・安芸・長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。
文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件 (永福寺事件)が起こり、下士と上士の間で対立が深まった。
『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。
なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が 流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。
同年4月、武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持ち、土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを 了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、 これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした。
これにより、同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた。
武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した。
武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与えて、
尊王攘夷の方向へ導くことにあった。
勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。
しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は、「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を 得ることができなかった。
引用元:wikipedia 「坂本龍馬」の項
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脱藩
挙藩勤王を目指す武市は積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ 動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年(1861年)10月、日根野弁治(ひねのべんじ)から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」を授かった後に、龍馬は丸亀藩への 「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れ、長州藩における尊王運動の主要人物である 久坂玄瑞と面会した。そのとき、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている。
龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わった。 この知らせにより土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中に脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようと する者が出て来た。これは実際には島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と 勘違いされたものであった。
これに参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)等が脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意した ものと思われる。
脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、 更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。
武市は藩を挙げての行動を重んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった。
龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾 (後に吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加) の助けを受けて、土佐を抜け出した龍馬が脱藩を決意すると兄・権平は彼の異状に気づいて 強く警戒した。兄は身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀を全て取り上げてしまった。
この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある。
脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。
尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、 4月23日に寺田屋事件が起こり薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。 吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく 九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は詳らかではない。
一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。 龍馬は7月頃に大坂に潜伏している。この時期に龍馬は望月清平と連絡を取り、自らが吉田東洋暗殺の容疑者と見なされていることを知らされる。
引用元:wikipedia 「坂本龍馬」の項
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勝海舟と神戸海軍操練所
龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した。この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流している。
12月5日、龍馬は間崎哲馬(まさきてつま)・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した。
12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となった。
龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、 己の固陋(ころう)を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られている。
この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。
だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には 既に龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする 見方が強い。
いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。
海舟は山内容堂に取り成して、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを 追認もした。
龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・ 沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。
また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに 斬り捨てた事件はこの頃のことである。
幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。 4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦の後、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の 私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。
幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して 松平春獄から千両を借入れした。
5月17日付の姉乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・ すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」 と近況を知らせている。
龍馬が神戸海軍操練所設立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太が藩論を 主導していることに不満を持っていた山内容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、 土佐勤王党の粛清に乗り出した。
6月に勤王党の間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太が切腹させられた。
平井の妹加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は6月29日付の手紙で姉乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きは いかばかりか」と書き送っている。
また、同じ手紙で攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢と(下関戦争)その際、幕府が姦吏の異人と内通し 外国艦船の修理をしていることについて強い危機感を抱き「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候」 と述べている。
8月18日に倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」が起きた。 これにより京都の政情は一変し、佐幕派が再び実権を握った。
8月に天誅組が大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎・那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている(天誅組の変)。
土佐では9月に武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた(武市は1年半の入牢後の慶応元年閏5月に切腹となっている)。
10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられた。
翌元治元年(1864年)2月、前年に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるために再び藩に 拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩をする。
2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。 熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をした。
5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、後に彼女を懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢に預けている。
5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足した。
6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(或いは200人程)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、 老中・水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている。
だが、この時点では龍馬と海舟は知らなかったが、6月5日に池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていた。
池田屋事件で肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、 死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいた。
北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、望月は神戸海軍塾の塾生であった。
八月十八日の政変と池田屋事件の後、長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃された。
7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)。
それから少し後の8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けて大打撃を蒙った(下関戦争)。
禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。
二度の敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順した (長州征討) 。
お龍の後年の回想によると、これらの動乱の最中の8月1日に龍馬はお龍と内祝言を挙げている。
8月中旬頃に龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を 「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評している。
望月の件に続き、塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が老中・阿部正外の不興を 買ったこともあり、10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまった。
これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けえなくなり、龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は江戸へ出立する前に 薩摩藩城代家老・小松帯刀に彼らを託して、薩摩藩の庇護を依頼した。慶応元年(1865年)3月18日に神戸海軍操練所は廃止になった。
引用元:wikipedia 「坂本龍馬」の項
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亀山社中
龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、慶応元年(1865年)5月頃に龍馬らに出資した。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり、当時商人が参集していた長崎の小曽根英四郎家を根拠地として、 下関の伊藤助太夫家そして京都の酢屋に事務所を設置した。
長州藩では前年の元治2年(1864年)12月に高杉晋作が挙兵して、恭順派政権を倒して再び尊攘派が政権を掌握していた(功山寺挙兵)。
亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、当時、水火の如き関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、 後の薩長同盟成立(後述)に貢献することになる。
幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、 一部の藩士は共に天を戴かずと心中に誓い、例えば「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。
この様な雰囲気の元でも、土佐脱藩志士中岡慎太郎とその同志土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を 望んでいた。
龍馬は大村藩の志士・渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、 長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。
慶応元年(1865年)5月、先ず土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させ、 同時に中岡は薩摩に赴き西郷に会談を応じるよう説いた。
同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけであった。
西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまっていた。 桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。
倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、 長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。
一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から 薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。
取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるので、 両藩とも自然これに首肯した。
これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での 長州藩への買い付け斡旋に成功した。
これは同時に薩長和解の最初の契機となった。また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の 働きにより薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って 紆余曲折はあったが、10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。
9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という重要な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けている。
引用元:wikipedia 「坂本龍馬」の項
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薩長同盟
慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。龍馬が1月20日に下関から京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問い質したところ、長州はこれ以上頭を下げられないと 答えた。
そこで、その夜に龍馬は西郷を説き伏せて、これにより薩長両藩は1月22日に薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表となり、 龍馬が立会人となって列席して、後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。
盟約成立後も桂の薩摩に対する不信感は根強く、帰国途中で龍馬に盟約履行の裏書きを要求している。
天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかる。
盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。
だがこの時、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。
明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり二人に知らせた。 すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を三吉は長槍をもって応戦するが、 多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み 救援を求めた。
これにより龍馬は薩摩藩に救出された。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄権平に報告している。
龍馬が不在の長崎の亀山社中では1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎 (上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し 自刃させられる事件が起きていた。
事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」と書き残しているが、 後年のお龍の回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという。
寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、以後、それが理由で写真撮影などでは左手を隠していることが多いのではないかと指摘する研究者もいる。
西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は2月29日に薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い 京都を出立した。
3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養の傍ら霧島山・日当山温泉・塩浸温泉・鹿児島などを巡った。
温泉で休養を取ると共に左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。
5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだ「ユニオン号」が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された 帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難に ある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。
6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。
6月16日に「ユニオン号」に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、 高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。
龍馬はこの戦いについて戦況図付きの長文の手紙を兄・権平に書き送っている。
長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。
幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。
思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、 7月20日に21歳の短い人生を終えた。
このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した (小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)。
引用元:wikipedia 「坂本龍馬」の項
ウィキペディアの執筆者,2012,「坂本龍馬」『ウィキペディア日本語版』,(2012年8月7日取得,http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC&oldid=43308675).
海援隊
先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。 慶応2年 (1866年) 7月28日付の三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。 この為、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。
将軍・家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の 家督のみを継承していた。8月末頃、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春獄に伝えるよう頼んだ。
龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣・大久保一翁がかねてから論じていたことで、 龍馬と下山の会見以前の8月14日には春獄当人が慶喜に提案して拒否されていた。
尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として 長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月頃から 溝渕広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年) 1月13日に龍馬と後藤が会談した (清風亭会談)。 結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は 「海援隊」と改称した。
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、 運輸・交易・開拓・投機・土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社をかねたような組織として、 隊士は土佐藩士 (千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎) および他 藩出身者 (陸奥陽之助 (紀州藩) ・白峰駿馬 (長岡藩)) など16~28人、水夫を加えて約50人から成っていた。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。
海援隊結成から程なく「いろは丸沈没事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約) 蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために 「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。
後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって5月に紀州藩は、いろは丸が積んでいたと龍馬側が 主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。
その後、減額して70,000両になった。
海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地や竹島の開拓も構想しており、後年妻お龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と 回顧している。
一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)はたびたび金の無心に来る
海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している。
引用元:wikipedia 「坂本龍馬」の項
ウィキペディアの執筆者,2012,「坂本龍馬」『ウィキペディア日本語版』,(2012年8月17日取得,http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC&oldid=43308675).
船中八策と大政奉還
いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。
京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春獄・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。
龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。それは以下の八項目であった。
- 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)
- 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)
- 有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
- 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)
- 古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
- 海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
- 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
- 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)
以上の八項目は「船中八策」として知られることになる。
長岡謙吉が筆記したこれは、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。
龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に容堂は土佐に帰国しており、
この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。
次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・
福岡孝悌・寺村左膳・真鍋栄三郎が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。
後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。
7月6日、龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。
龍馬と後藤は、この対応のために長崎へ戻り、龍馬は9月まで英国公使パークスとの談判に当たっていた。
結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている(犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた)。
後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、 9月7日に薩土盟約は解消してしまった。その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。
事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。
10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で
老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。
慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なき時は、海援隊同志と
ともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう。」と激しい内容の手紙を送っている。
一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。
この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。大政奉還の成立によって討幕の大義名分が 失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。
展望が見えた龍馬は10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。
龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあるのに龍馬の名が欠けていて、新政府に入ってはどうかと勧めると
龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。
だが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典の
創作の可能性がある。
しかし、龍馬本人は役人になるのは嫌とおりょうに語り、十一月の陸奥への手紙には「世界の話でもしようか」ともあり、
尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性もある。
尾崎の手控とされる資料についても数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いも指摘されている。
また、11月上旬には船中八策を元に「新政府綱領八策」を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にして おいた。龍馬が誰を意図していたのかは様々な説がある。
引用元:wikipedia 「坂本龍馬」の項
ウィキペディアの執筆者,2012,「坂本龍馬」『ウィキペディア日本語版』,(2012年8月17日取得,http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC&oldid=43308675).
暗殺
後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春獄の上京を促して三岡八郎と会談した後、11月5日に帰京した。
11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の 岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が 来訪し面会を求めて来た。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。 龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近かった。
当初は新選組の関与が強く疑われた。また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが 紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。 慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。 また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬暗殺の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を暗殺したと自白するも、後に撤回している。
明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人 (今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、これが現在では定説になっている。 その一方で、薩摩藩黒幕説、土佐藩黒幕説、果てはフリーメイソン陰謀説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。
墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。なお、靖国神社にも祀られている。
引用元:wikipedia 「坂本龍馬」の項
ウィキペディアの執筆者,2012,「坂本龍馬」『ウィキペディア日本語版』,(2012年8月17日取得,http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC&oldid=43308675).